指導の目的

 大人は、身の回りの始末をあらためて意識して行なうわけではありません。教わった記憶もほとんどありません。気づいたらできるようになっていて自動的に体が動いています。
 「自然にできた」と思っているのに教えるなんていったら、いったいどうやればいいのか見当がつきません。子どもも自分と同じに何となくいつかできるだろうと考えます。
 それが漠然と感じている「身辺自立」へのとらえ方でしょう。学校で習った記憶のある「読み書き算数」、「跳び箱鉄棒縄跳び」のたぐいの方がスゴイことに思えてきます。
 「身辺自立」との出会いは人生で記憶にならないほど初めの方です。教わらなかったわけでなく覚えていないだけです。
 子ども達にとって初めに出会う学びの場面であり、生活全般の基盤をつくっているのは「身辺自立」のシーンです。

たとえば、ボタンがはまってにんまりしているおちびさんは、 @自分にもできるという「自信」
 A器用につまむという「指先の巧緻性」
 Bボタンとボタン穴を探る「触覚」
 Cボタンとボタン穴の「空間位置の把握」
 Dボタンを持って穴に入れる「手順とルールの理解」
 E教えてくれる人の手元を見る「注意力」とまねる 「模倣力」
 といった能力を積み上げているわけです。

 さらには「だれかにやってもらう不自由」から解放されて「自分でできる自由」に近づくための布石にもなっています。
 たかがボタン、されどボタン。生きていくための基礎的な力を育てていく要素が身辺自立のここかしこにあるというとオーバーでしょうか。
 そんなに「効能」があるのなら、身辺のことを教えましょう、と思ってみたものの、うまくいかなくてイライラしていませんか。


 
@「イライラしませんよ。だってできないのは、障害があるせいだもの。」
 障害があっても自分の持てる力を十分に発揮して社会の中で生活してほしいと私たちは考えています。
 「自分から学ぶ力が弱い」という障害を持った子ども達は、「教えないとできるようにならない」という特性を持っています。
 「自然に」
 「そのうち」
 「わかるようになれば」
 といってもできるようにはなりません。
 教えてもらう中で、わかるようになり、できるようになる子ども達です。だから小さい時から教えていきたいのです。
 がんばってやろうとしてもできないことが大人になっても残るかもしれません。でも真摯に取り組む姿には他の人も手を差し伸べやすいものです。

A「でもだいたい、子どもがいうことをききません。たとえばトイレに座らせようものなら大騒ぎ。とても大変。」
 大人は今までの経験則から「2、3回試してみてイヤな思いをしたらそのことはやめる」という傾向があります。子どもに泣かれたり騒がれたりするのは大きなストレスなので、「こんなに嫌がっているから」と子どもの言い分にしてやめてしまいます。
 嫌がっていても学ばなければならないものは多いのです。
 大騒ぎで泣く毎日を忍耐しなさいというのではなくて、嫌がり度を下げる工夫は必要でしょうね。
「ちょっとずつ」
 量・時間・動きを加減してやります。
「快適に」
 暑さ・寒さ・感触・興味などを調節して
「うまくいきやすい」
 ちょっとやると大成功! という具合にしてやるとがんばりやすいですね。上の例ならトイレを暖かくして、さらに座っている間、好きなおもちゃに触れるなどしてゴールに近づいている方もいます。

B「なかなか教えてもやれるようにならないし、毎日同じことの繰り返しよ。」
 子どもさんが2、3歳では、力が入らなかったり感覚的な未熟もあるのでうまくいかないものもあります。
 もっと年長の子どもだと、それぞれに特徴的な弱さがあって、それが「やれない原因」になっています。
 「弱さ」に対抗する手だてを考えます。
 手指の動きが弱ければ操作しやすい形にし、手順がわかりにくければ目安になるポイントを示します。目安がわからなければ、体の動きで教えることも必要です。この時は、力加減を伝える粘りも要求されます。「粘り」や「できる工夫」が子どもの状態にかみ合うと道を開く可能性も高くなります。

 とにかく子どもの力を信じてまず一歩。

■月刊 発達教育より 武藤 英夫(発達協会)臨床心理士